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  <title type="text">まとめ</title>
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  <updated>2015-12-17T00:47:59+09:00</updated>
  <author><name>バター犬</name></author>
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    <published>2016-12-01T03:37:12+09:00</published> 
    <updated>2016-12-01T03:37:12+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>女嫌い</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<div>●女好きの男のミソジニー</div>
<div>男にとって女が取り換え可能なように、女のほうにしても相手は人格であるより記号である。</div>
<div>男は女という夢を見たが、女は早々に男という現実に目覚めて、男の代わりに女に、つまり自分自身に向かった。</div>
<div>●ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニー</div>
<div>男の値打ちは、男同士の世界での覇権ゲームで決まる。</div>
<div>ホモソーシャルとは、性的であることを抑圧した男同士の絆である。</div>
<div>フロイトは「生の欲動」をアイデンティフィケーション(同一化)とリビドー・カセクシス(欲求充当)に分けた。なりたい＝父願望と持ちたい＝母願望。このふたつを振り分けることができないのが同性愛者である。</div>
<div>おかまが自分たちの集団に潜在していることの恐れは、自分がいつ性的客体化されるかもしれない、という主体位置からの転落の恐怖である。ホモフォビア</div>
<div>女を共通の犠牲者と化すことが、男同士の連帯のための儀式となる。</div>
<div>男は他の男の性的欲望を模倣することを通じて、男として性的主体になる。</div>
<div>●性の二重基準と女に分断支配</div>
<div>聖女と娼婦の二分法。性の二重基準のもとで、分断された一方の女が他方の女を軽蔑する「娼婦差別」がある。</div>
<div>生殖からの疎外も生殖への疎外も女にとっては抑圧であり、女のセクシュアリティは、生殖向きと快楽向きとに分断されて互いに対立させられながら、疎外されていた。</div>
<div>●非モテのミソジニー</div>
<div>容姿から非モテを導き出すＫ君の思考回路が、いかに女性との現実の交渉を欠いたものかはすぐにわかる。</div>
<div>彼女がいることがすべてのマイナスから自分を救ってくれる逆転必勝の切り札だと考える彼の思考は完全に倒錯している。実際の因果関係は、仕事をやめたり、車をなくしたり、夜逃げしたり、携帯依存症になるようなやつに彼女はできない、となる。</div>
<div>夫婦も恋人も定型を失ってきた。定型の無い性関係のなかで相手は異形となる。</div>
<div>性的弱者が望んだのは、自分を男にしてくれるひとりよがりな女の所有でしかない。</div>
<div>●児童性虐待者のミソジニー</div>
<div>加害者に同一化するだけでの快楽は浅い。被害者の痛みにも同化できるからこそ、快楽はより複雑になり深くなる。</div>
<div>●皇族のミソジニー</div>
<div>正当性には正当性を与えるものが必要。</div>
<div>創設婚&rarr;ＭＢＤ婚(豪族との結婚)&rarr;ＦＢＤ婚(皇族との結婚)</div>
<div>神武～允恭までは、皇后腹が優先される。安康～持統まででも皇后腹の天皇は20代のうち、7人にのぼる。</div>
<div>天皇の娘は、同族の男と結婚しない場合、斎宮制度を通じて神との盟約を結び、スメラミコトの外部性は保証される。</div>
<div>なぜ創世神話の祖神は女性か？</div>
<div>王権の正当性には外部が要り、その外部を表彰するのが女だからである。</div>
<div>●春画のミソジニー</div>
<div>女が殺される可能性が最も高い相手は、夫や恋人である。</div>
<div>女のマスターベーション・シーンがポルノの消費者としての男に性的刺激を与えるのは、その不在の男根の位置に、みずからの男根を象徴的に代入できるからである。</div>
<div>●近代のミソジニー</div>
<div>女という選択されたカテゴリーを選択に変える。そのなかに解放のカギはあるだろう。</div>
<div>●母と娘のミソジニー</div>
<div>ステージママ。</div>
<div>女性性とは、それ自体がメランコリックなのだ。</div>
<div>母を憎むだけで、娘は自分を人非人のように恥じなければならない。なぜなら母は抑圧者でありながら、犠牲者だからだ。</div>
<div>母が母でなくなって初めて、彼女は母親と和解する。</div>
<div>●父の娘のミソジニー</div>
<div>父の娘の最大の役割のひとつは、無念の死を遂げた父の魂を慰める存在となること。</div>
<div>父の娘はただの誘惑者ではない。父に対して娘であることの特権を知悉し、とことん利用することで、その権力関係をあわよくば転覆しようと狙っている誘惑者の権力の所有者なのだ。</div>
<div>もっとも恥ずべき行為を父にさせることによって復讐する。</div>
<div>その復讐が自傷や自罰をつうじてしか遂行されないところが、絶対的弱者である娘の選択肢の狭さ。否定的アイデンティティ形成。</div>
<div>父の娘から脱する道は、二つに一つしかない選択肢(母の言葉か父の言葉か)をいずれも拒否し、「母であること」や「娘であること」を降りるほかない。母の解放と娘の解放とは対なのだから。</div>
<div>●女子校文化とミソジニー</div>
<div>中村うさぎ。ドラッグクイーンとは、女らしさを過剰に演出することでジェンダーの虚構性をネタにして笑い飛ばす、ゲイの女装戦略だ。</div>
<div>ええ、整形ですから。</div>
<div>中村うさぎはこう答えることで、容貌の美醜が自分に属さないこと、女というジェンダーが女装によって成り立っていることを、パフォーマティブに示す。</div>
<div>●東電ＯＬのミソジニー</div>
<div>メディアが発情した。</div>
<div>父へのリベンジとしての自傷。</div>
<div>均等法以後の女は、個人としての達成と女としての達成、このふたつを両方とも充足しなければ、けっして一人前とはみなされないのだ。</div>
<div>娼婦になる理由。</div>
<div>自分に商品価値があるのなら、せめて高いうちに売って金を儲けたいと考える者。性なんて何の意味もないのだということを、自分の肉体で確かめたい者。自分なんかちっぽけでつまらない人間だと卑下するあまり、男の役に立つことで自己を確認したいと思う者、荒々しい自己破壊衝動に駆られる者。</div>
<div>東電ＯＬＡ子さんのほうが男の値段(2千円)をつけている。</div>
<div>援助交際経験があり、かつて養父に性的虐待を受けていた女性は、男からお金を受け取るのは、私の体をあんたが自由にしてよいのは、金を払っているあいだだけだということをはっきりさせるためでしたという。</div>
<div>自分が男の性的欲望の対象になることに関して、自分自身の主体性を確保したい。</div>
<div>●ふたつのミソジニー/ミソジニーの女</div>
<div>なりあがり戦略となり下がり戦略。</div>
<div>女のねたみ・そねみ・ひがみは男に選ばれる女の帰属をめぐるゲームという点で男のそれとは違う。</div>
<div>「対岸の彼女」は女同士の友情を描き、「ヘヴン」は少年と少女の形而上的な友情を描く。</div>
<div>●権力のエロス化</div>
<div>夫婦の間にセックスの義務が生じた。</div>
<div>プライバシーの語源はラテン語のはく奪したから来ており、公権力の介入を拒否する領域では、強者にとっては自由な支配を、弱者にとっては第三者の介入や保護の無い恐怖と服従の場になったのである。</div>
<div>神が死んだあとの秩序の真空を自然が埋めた後、原罪を人間に教えるのは神でなく性の自然となった。</div>
<div>課題はセクシュアリティを歴史化すること、すなわち脱自然化することである。</div>
<div>性が特定の歴史的文脈において、性が特定の何かと特権的に結び付けられる蓋然性だけである。</div>
<div>エロスは文化的な発情の装置であるからこそ、知性も教養も必要なのだ。</div>
<div>守るというのは、男にとっての愛が、所有や支配の形式しかとりえないことを、この概念は如実に示す。</div>
<div>●ミソジニーは超えられるか</div>
<div>欲望の三角形のもとでは、欲望の主体は男性に限られ、女は園三角形の中では、意志さえ問われない欲望の客体にすぎない。</div>
<div>女性にとってホモソーシャルとホモセクシュアルとのあいだに連続性があったとしてもそれは不利な選択、劣位であることを甘んじる選択になる。&larr;男性の集団に帰属することで権力という資源配分をあずかるほうが効率がいいため。</div>
<div>ミソジニーについては、それを超える道筋がふたつある。ひとつは女が超える道筋、もうひとつは男が超える道筋である。</div>
<div>男性の自己嫌悪には、自己否定と身体蔑視がある。</div>
<div>男性性と暴力の結びつき以前に、暴力とは恐怖という名の防衛機制を解除した他者身体との過剰な関係を意味する。</div>
<div>フェミニズムは女にとって、自分自身と和解する道だった。男にとっても自分自身と和解する道がないわけではない。</div>
<div></div>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>バター犬</name>
        </author>
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    <id>greatskyriver119.blog.shinobi.jp://entry/4</id>
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    <published>2016-06-20T19:21:25+09:00</published> 
    <updated>2016-06-20T19:21:25+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>第7回　フェミ勉　レジュメ　4.5章　</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<div>第4章</div>
<div></div>
<div>スピヴァクがフェミニズム思想に行った貢献の一つとして、「第三世界女性の現実の歴史と生活」を女性の闘争に組み込んだ点にある。</div>
<div>とくに「フェミニズムとはあらゆる女性のために語るもの」と言明したことは、フェミニズム思想の再考を促した。</div>
<div>第１・２世代「自由主義ヒューマニスト思想は女性を他者として規定し、女はヒューマニズム主体である男より劣るとし、男女の違い生物学的な根拠に基づく自然な事実として定義してきた」</div>
<div>ボーヴォワールいわく「<span style="color: #ff0000;">ひとは女に生まれるのではない。女となるのである</span>」</div>
<div>「ジェンダーとは社会的構築物であるがゆえに、社会的・政治的闘争によって抗うことも可能である」</div>
<div>ただボーヴォワールはジェンダーに関する科学的説明を問わなかった。</div>
<div>女とはスピヴァクにとって　男（家父長制、家族、国家、法、教育、メディア）に依存するものである。</div>
<div><span style="color: #ff0000;">女の理論を詰めていくには、男のことを考えれば十分</span>というイリガライという先行者がいる。</div>
<div>2項対立に陥らないスピヴァクの戦略的本質主義＝子育て労働という視点から母親を主体として認めていない西洋マルクス主義フェミニズムに疑義を突き付けている</div>
<div></div>
<div>スピヴァクのクリステヴァへの批判は、フェミニストは第三世界の無力な女性に学ぶ必要があるという警告であり、中国の女たちという本への批評に表れる。</div>
<div>時と空間の深淵を超える努力をしない、自己中心性（主体である探究者に批評の焦点が置かれた状態）に対し、スピヴァクが描くのは女性のセクシュアリティの地理学である。</div>
<div><span style="color: #ff0000;">女性の身体の過剰さを示しているのがクリトリスの刺激による性的絶頂ではなく、がんである</span>ということを乳を与えしものは、西洋フェミニズム＝クリトリスによる絶頂と相反する。</div>
<div>クリティカル・インクワイアリーにおける創作された言説と社会組織や政治権力をめぐる言説の壁を壊す試みとして三人の女性によるテクストは、ジェーンではなくバーサ（認知されない他者）に焦点を当てる。</div>
<div><span style="color: #ff0000;">女性の身体を私的所有物として定義する</span>ことが女性主体構築の一般条件であり、クリトリス切除とも類似する問題は、西洋フェミニズムが帝国主義と共犯関係にあることを暴露している。</div>
<div></div>
<div><br />
第５章</div>
<div>スピヴァクは女性の経済的搾取を国際分業と関係づけ、マルクスはポストコロニアルな状況でも引き続き重要であると証明しようとする。</div>
<div>スピヴァクがマルクスを重視する二つの理由は</div>
<div>①マルクスの初期ユートピア思想への批判は脱構築と見える</div>
<div>②デリダがマルクスを誤解していた</div>
<div>ドゥーロティの<span style="color: #ff0000;">虐げられた死体</span>は債務労働や売買春に基づく旧来型の搾取形態であり、国際的分業でもある。</div>
<div>価値の問題の決定項は、主体をどう記述するかであるが、近代の主体概念によれば意識によって述語的に規定され、唯物論的述語規定では、労働力が決定項となる。</div>
<div>&rarr;<span style="color: #ff0000;">主体は受動的であり、人は自分自身を構築することができない。</span></div>
<div>社会的労働分業によって起きる人間主体の疎外は資本主義に内在する構造的矛盾であり、いずれは資本主義の自己破壊につながる。</div>
<div>&rarr;ソ連崩壊により誤りとされるが、国際的分業への示唆まで放棄してしまってもよいのか。</div>
<div><span style="color: #ff0000;">第三世界が第一世界の富と文化的自己表象の可能性を産出している</span>。</div>
<div>&rarr;マルクスの労働価値論の再評価</div>
<div>マルクスの商品分析の中で重要なのは、使用価値が理論化されていない点である。</div>
<div>ある商品の使用価値は、その物体の内在的特性や使用価値によって決まるのではなく、<span style="color: #ff0000;">交換価値</span>（ナイキの商品イメージ）<span style="color: #ff0000;">から使用価値</span>（労働状況）<span style="color: #ff0000;">を抽象的に抜き出す</span>。</div>
<div>&rarr;マルクスにとって人間の労働は労働者と資本家との間の矛盾の集約点だが、スピヴァクにとっては、<span style="color: #ff0000;">不確定性の可能性</span>として、交換と資本の流通の空間のための身体となっている。</div>
<div>マルクスの欠点である経済決定論の視点から、アイデンティティがイデオロギーと言説によって形成される仕方への考察へ移る。</div>
<div></div>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>バター犬</name>
        </author>
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    <published>2016-06-08T21:27:34+09:00</published> 
    <updated>2016-06-08T21:27:34+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>第6回　フェミ勉　課題図書「HER」と「愛すべき娘たち」</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<div>主催者によれば、今回漫画を選んだ理由は、スピヴァク読解から見えてきたシスターフッドへの懐疑を問い直すためということ。</div>
<div></div>
<div>HERに対しては、リアルな時代的感性（ファッションセンス、嫌な男等）を読み取った人が多く、年齢に応じた同調圧力や自意識を息苦しく感じ理解の限界を人もいた。後述の愛すべき娘たちと比べて、作者の出自が庶民派であるためか、エネルギーに満ちた女性に焦点が当たることも多い。すべての厄災は母親に由来するという言葉がキーとなっているということで一致。議論は実際の母と娘の関係に移ったので、男性陣しばらく沈黙して拝聴。</div>
<div></div>
<div><span style="color: #ff0000;">1.母親と娘の議論</span></div>
<div>父親の不在と母親との葛藤のない関係が描かれている。実際にはドライでありながら、子供を自らの投影とみなしていたりするアンビバレントな側面がある一方、一時期は完ぺきにも思える存在でもある。</div>
<div>父子関係と母子関係の違いは、父親は成長することで殺すこと（相対化）ができる存在であるが母親は殺すことができない。しかし一度は殺しつくすことを志すべきである。</div>
<div>他人も母親との葛藤を抱えていたと知ること自体に、安心感を覚える。</div>
<div>密着型の母親像と放任型の母親像の乖離は、父親と子供の関係に影響される。</div>
<div>愛すべき娘たちの母子家庭や虐待のケースにおいては、父親の存在は影ながら大きな役割を担っている。</div>
<div>母と娘の距離が適切でない場合、父親と母親の関係に問題がある場合がある。</div>
<div>母親は娘に認められたいと思うのでは？</div>
<div>父親不在の物語は、大人になりたくない読者の気持ちを反映する。</div>
<div>大人になるということは、大人になるということに拘らなくなることなのかもしれない。</div>
<div>大人になれば服装も自由になれるが、長子であることの責務等ものしかかってくる。</div>
<div></div>
<div><span style="color: #ff0000;">2.閉鎖的な地域社会や家父長制の「呪い」についての議論</span>。</div>
<div>祖父母世代と比べて、社会情勢の変化等あるが、基本的には目に見えない形で（例えば経済的な問題、「分骨」は是か非か、介護の担い手問題）に存在している。血縁関係の難しさ</div>
<div>シスターフッドは血縁に依らない。</div>
<div>キブツやミクロネシアの例も一種のシスターフッドではないだろうか。</div>
<div>しかしここで問題なのは、家父長制ももともとは相互扶助の枠組みだっただろうということで、今それが抑圧的になっているのは単に時代に合わなくなってきているという相対主義だろう。</div>
<div>抑圧的な側面は、例えば血縁関係は替えが効かない分、失敗すると取返しがつかない。</div>
<div>例えば良い嫁であろうとすることといい母であろうとすることは矛盾する。</div>
<div>結婚する目的は子作りであるなら、出産に数十万もかかるのはおかしいので、出産に合理的根拠はなく、少子化の現状もまた必然なのかもしれない。</div>
<div></div>
<div><span style="color: #ff0000;">3.階級としてのHER。</span></div>
<div>這い上がるエネルギーはカーストによって違う。</div>
<div>バイトでグランドピアノを買った人と比べて、親のお金で大学に行った自分は、人間的に弱いのではないだろうか？という疑問。</div>
<div>一方でHERケース５の貧しい家庭に育った主人公は、生活も心もゆとりがある女性に対して劣等感を抱いている。</div>
<div><br />
<br />
感想<br />
以上がフェミ勉で話された内容で、メモできた部分の要約です。<br />
１～３の部分はそれぞれ別の問題提起をしているとともに、同じ問題について語っていますが、特に興味深く思うのは、２の「キブツやミクロネシアの事例も、いずれは現在の家父長制のように抑圧的になるのでは？」という疑問を全員が共有していた点でした。<br />
この漠然とした問いは、シスターフッドそのものへの懐疑というより、よくある類の現代社会への懐疑なのでしょう。<br />
いかにしてこの懐疑を超えたところに、シスターフッドを見出していくかが今後、問われていくのだろうと思います。<br />
</div>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>バター犬</name>
        </author>
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    <published>2015-12-27T11:52:33+09:00</published> 
    <updated>2015-12-27T11:52:33+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>サバルタンは語ることができるか【感想】</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[ここからは自分の偏見を交えた感想になります。(要約そのものやスピヴァクの多義性に富んだ作品を要約するという自分の振る舞い自体が失敗だったということは別な媒体で考えたいと思います。)<br />
<br />
スピヴァクはフーコーやドゥルーズの主体効果への言及から初めて、イギリス植民支配下のサティーの伝統対近代化について、二重の抑圧だという指摘に至るのですが、抑圧されたのが、サティーの固有性や女性のありのままの姿というのは言い過ぎというか前近代ロマン的な見方だと自分には思われます。罪のない女性を死に至らしめ、それを正当化している構造は、目に見える暴力や犯罪などでは断じてないとスピヴァクが先に言ってしまっているためです。目に見える暴力の相互作用が犠牲者を崇高に見せる構造なのであれば、サバルタンという言葉が意味するものは、サバルタンのありのままの抑圧なのですから、そのありのままの姿があるかのように表現してしまうことは抑圧の源泉である構造の不可解さを見過ごしてしまうのではないかという危惧が常に残ります。そこはポスト構造主義の論理的に弱いところです。勿論、スピヴァクはサティーにおける財産分与の主体としての寡婦も見ています。ただそこはあまり主題ではないので、サティーが進行するプロセスで財産分与の権利主体と自由意思の発話主体とのずれがひろがっていくということは、今後自分がフェミニズム学を学ぶのに必要な視点かと思いました。<br />
<br />
スピヴァク自身がイギリスで高等教育を受け、その剰余価値からサバルタンを語るのだとすれば、虐げられたものたちへの信頼でもって、その連帯とローカルな闘争を呼びかける生粋の西洋知識人（フーコードゥルーズ）よりもスピヴァクのサバルタンとの違いは、実際明確なようです。<br />
<br />
全体的にかなり批判的になったかもしれませんが、帝国主義や国際分業についての説明などは、ＯＤＡや技術移転があたかも善きことであるかのように振舞う自分たちにもなっとくの内容だったと思います。]]> 
    </content>
    <author>
            <name>バター犬</name>
        </author>
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    <published>2015-12-17T01:24:35+09:00</published> 
    <updated>2015-12-17T01:24:35+09:00</updated> 
    <category term="読書" label="読書" />
    <title>サバルタンは語ることが出来るか【要約】</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<div><span style="color: #ff0000;"><strong><br />
<br />
〈サバルタン自身は語ることができるか〉〈サバルタンについて誰かが語ることはできるか〉</strong></span></div>
<div>寡婦＝脱中心的な主体(デリダ)とサバルタンについて語る代表/代理の関係性(マルクス)に基づいてスピヴァク自身の位置の取り方を問題化する。</div>
<div></div>
<div><strong><span style="color: #ff0000;">１．フーコーとドゥルーズの主体への批判</span></strong></div>
<div>ポスト構造主義は権力・欲望・利害の異種混交的ネットワークと他者の言説の存在を明らかにしたが、グローバル資本主義が示す困難さを否認している。</div>
<div>イデオロギー＝言葉によって支配階級の支配を保障する能力の再生産をかれらは図式的にとらえているので、欲望と利害を機械的に関連付け虚偽意識の否定にまで行ってしまう。</div>
<div>「大衆は、完全によく、はっきりと知っています」(フーコー)</div>
<div>マルクスによれば、喩としての表象(代表・経済)と説得としての表象(代理・政治)が齟齬をきたす社会的「主体」＝分割地農民(＝サバルタン)は執行権力が社会を従属させること(代理)のうちに最後の表象を見出す。</div>
<div>マルクスが言う十全な階級的行為とは人為的な領有であるとともにひとつの異議申し立て的な置き換えを行うことであるが、フーコーたちのリビドー経済は主権的な主体のカテゴリーにまで戻ってしまう。よってこの反動的な主体形成はミクロ論理ではなく、マクロ論理の利害をミクロ論理で操作する(レプレゼンテーションの二重性)というイデオロギーの理論によって説明するしかない。<br />
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フーコーとドゥルーズの結論は➀記号論は葬り去っても良い➁理論は実践の中継者③被抑圧者は自分で知り語ることが出来る、の3点である。この結論に伴って欲望と権力という大文字の主体と被抑圧者という小文字の主体と二つの主体の間で透明な存在である知識人が導入される。<br />
しかし、知識人の透明性は国際分業の搾取者の側に属しているので、超越論的なシニフィエである経済的要因が社会的テクストを書き込み直しているのを見てみるという政治的実践は還元不可能であるが故に必要となる。<br />
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<div><span style="color: #ff0000;"><strong>2(30～）</strong></span></div>
<div>正気の再定義はヨーロッパ並びに植民地の歴史のナラティブだとすれば、ナラティブとして確立された経緯を考察する必要がある。（ヒンドゥー教を法典化する認識の暴力についての図式的な要約）</div>
<div>主体が記憶力を利用する時に定義される４つの部分からなる</div>
<div>?シュルティ（聴取）?スムリティ（記憶されているもの）③シャーストラ（他から教わるもの）④ヴイヤヴァハーラ（やりとりしながら遂行されるもの）</div>
<div>?と?は連続的でない場合もあり、③と④は連続する。この４つの方法が紛争を解決するものかどうかは法律家ですらも確信が持てない。</div>
<div>「認識の暴力」＝内的一貫性を欠いていて両端の閉じていない法律遂行の多形態的な構造を二進法で正当化するもの。（例：サンスクリット研究とサンスクリットの文化の分離）</div>
<div>スピヴァクの「他者」は認識の暴力によって画された圏域の縁に位置する読み書きのできない農民、部族民、都市の最下層に属する男性と女性を指しており、国際的分業によってかれらが社会的資本とは反対の側におかれている場合、語ることができるのか。</div>
<div>サバルタンスタディーズのテクストは異種混交的な空間（「偽」のサバルタンが支配者の利害に沿って行動すること）を固定的にとらえることが不可能であることの諸条件をその可能性の条件として書き直す。<br />
国際的マルクス主義もサバルタンスタディーズもドゥルーズ・フーコーも意識の純粋なる形態を想定している。</div>
<div>意識は異なる階級及び集団のあいだの相互関係の知識に結びついているが、意識と知識とをつなげる視点にはイデオロギー的生産という中間項が抜けている</div>
<div>作品＝サバルタンがいう事ができない事柄という概念（マシュレー）は女性「像」と女性の「無規定」によって、性差は二重に消し去られており、イデオロギー的構築が男性的なものを支配的な立場にとどめおいたままにしている問題を示す。。</div>
<div>。現代の国際分業は19世紀の帝国主義の焼き直しであるが、かつては産業資本を成長させるために教育や輸送手段、法律が発展したが、現在は脱植民地化し多国籍資本になった結果、植民地での行政的負担が減ったため、安価な労働力の提供先として買弁国家に立法や教育システムの確立が阻害されている。</div>
<div>同質的な他者を構築するだけで終わってしまうならば、その意識を捕まえるのが不可能な人々＝最底辺の自作農民、未組織の農業労働者、部落民、ゼロ労働者と向き合うということは、かれらを代表することではなく、私たち自身を表象することを学ぶことである。</div>
<div>地理的な非連続性に触発されたフーコーの空間的位置形態をとった権力思想は帝国主義が地誌に行った書き込みの自覚は無い故に、書き込みを強化するようなローカル化した抵抗を称賛している。</div>
<div>サバルタンの二重の抑圧を、語ることができないことと語ることからの抵抗という二つの面から見ることでイデオロギー的生産を考察する。</div>
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<div><span style="color: #ff0000;">3（62～）グラマトロジー</span></div>
<div>自民族中心的な主体が、他者によって自己を確立してしまうのを避けるために、経験主義的調査研究が自らに課す実例を通して第三世界の「認知」に抵抗する。文字の歴史には三つの偏見、➀神学的偏見➁シナ的偏見③ヒエログリフ的偏見がある。➀はギリシャ文字とヘブライ文字の現実性を保持し、➁、③はロゴスの中心がユダヤキリスト教的神にあると見る第一の偏見を支持する。</div>
<div>二つの解決策のうちの一つ、言い表すことができず、それでいて超越的でもないような場所は、サバルタンによって備給される。</div>
<div>デリダにとって、グラマトロジーの企てとは、自己自身の批判を遂行するなかで現前の言説がどのような行程を辿るのかを自覚することであり、他者たちに自分で語らせるのではなく、まったき他者への呼びかけを行って、自分のなかの他者、内なる声にうわ言を言わせることにほかならず、他者の構成のメカニクスのレヴェルにはフーコーの規律化施設化のメカニクスが有益である。</div>
<div></div>
<div><span style="color: #ff0000;">４（72～）寡婦殉死</span></div>
<div>性差別反対運動も意識あるいは主体なるものの想定と構築がその根底にあるうちは、帝国主義的な主体構成に取り込まれてしまい、サバルタンはいつまでも無言のままだろう</div>
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サバルタンについて語ることができるのかという問いが、もっともよくあらわれていたのは女性の問題、フェミニズムにおいてである。</div>
<div>英米の実証主義/本質主義フェミニズムとヨーロッパの理論のフェミニズムの二項対立はヘーゲルやマルクスの弁証法のうちに本質主義を見たとき、問題の所在を見えにくくし、むしろこの二つ立場は共犯関係にあることを隠ぺいする。この論争のなかではサバルタンを語ることは出来ないが、フェミニズムは実証主義批判や物神崇拝からの脱却と連携すべきであり、そのうえでサバルタンの意識に向き合うと、女性のイデオロギー的犠牲化とポストコロニアル知識人の透明な立ち位置は似ていることがわかる。「白人の男性たちが、茶色い女性たちを茶色い男性たちから救い出している」という抑圧的な文には二重の歴史があり、1829年の英による寡婦殉死の禁止とリグヴェーダとダルマシャートラに起源がある。（この歴史を支持する未分化な前起源的空間もまた存在する。）</div>
<div>寡婦殉死、ヒンドゥー教の寡婦が死んだ夫の火葬用の薪のうえに上り、そのうえでわが身を犠牲にする行為、が禁止されたことに対するインドの土着主義者は「女性たちは実際に死ぬことを望んでいた」という。植民地社会＝善き社会設立のため、儀礼と犯罪、私的なものと公的なものの境界を飛び越え、女性保護というシニフィアンは行われた。</div>
<div>ダルマシャートラの中で真理を認識した主体の自殺は自然に取って有益であるため認可される。サバルタンの場合はどうか。儀式のベッドの上で、女性の主体が合法的に女性から引き離されて消尽しつつあること＝寡婦殉死は彼女自身の欲望を表示した例外的なシニフィアンのように理解されうる。</div>
<div>寡婦の殺害を唱道するのではなく、殉死するのも殉死を思いとどまるのも、両サイドからはともに自由の選択の印とされてしまう場では、女性的主体が現に生きている姿のままに構成するということも、ディフェラン（抗争＝争異）を示唆するにすぎない。</div>
<div>現実には寡婦殉死禁止は殺人や幼児殺しの禁止と同じく「目に見える暴力」として範疇化され、自由意思という疑わしきトポスや寡婦殉死のイデオロギー性、性別化された主体の構成は消し去られた。</div>
<div>サティー（良き妻）＝寡婦殉死という言葉は文法的取り違えであり、インド諸語ではサティー（良き妻）の燃焼を意味している。この誤訳は善き妻であることと殉死の同一化を女性に強制する。</div>
<div>家父長制（伝統）と帝国主義（近代化）、主体の構築と客体の形成のはざまで、女性の像は原初の無からあるひとつの暴力的な往還（アポリア）のなかへと消え去っていく。</div>
<div>サティーのイデオロギーを介入主義的な実践に結びつけることは可能だろうか。</div>
<div>ブヴァネシュワリは、自分の死が違法な恋愛の結果だと思われるのを避けるために、生理を待って自殺することで、サティーを介入主義的なやりかたで書き直した。</div>
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            <name>バター犬</name>
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