ここからは自分の偏見を交えた感想になります。(要約そのものやスピヴァクの多義性に富んだ作品を要約するという自分の振る舞い自体が失敗だったということは別な媒体で考えたいと思います。)
スピヴァクはフーコーやドゥルーズの主体効果への言及から初めて、イギリス植民支配下のサティーの伝統対近代化について、二重の抑圧だという指摘に至るのですが、抑圧されたのが、サティーの固有性や女性のありのままの姿というのは言い過ぎというか前近代ロマン的な見方だと自分には思われます。罪のない女性を死に至らしめ、それを正当化している構造は、目に見える暴力や犯罪などでは断じてないとスピヴァクが先に言ってしまっているためです。目に見える暴力の相互作用が犠牲者を崇高に見せる構造なのであれば、サバルタンという言葉が意味するものは、サバルタンのありのままの抑圧なのですから、そのありのままの姿があるかのように表現してしまうことは抑圧の源泉である構造の不可解さを見過ごしてしまうのではないかという危惧が常に残ります。そこはポスト構造主義の論理的に弱いところです。勿論、スピヴァクはサティーにおける財産分与の主体としての寡婦も見ています。ただそこはあまり主題ではないので、サティーが進行するプロセスで財産分与の権利主体と自由意思の発話主体とのずれがひろがっていくということは、今後自分がフェミニズム学を学ぶのに必要な視点かと思いました。
スピヴァク自身がイギリスで高等教育を受け、その剰余価値からサバルタンを語るのだとすれば、虐げられたものたちへの信頼でもって、その連帯とローカルな闘争を呼びかける生粋の西洋知識人(フーコードゥルーズ)よりもスピヴァクのサバルタンとの違いは、実際明確なようです。
全体的にかなり批判的になったかもしれませんが、帝国主義や国際分業についての説明などは、ODAや技術移転があたかも善きことであるかのように振舞う自分たちにもなっとくの内容だったと思います。