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まとめ

女嫌い

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女嫌い

●女好きの男のミソジニー
男にとって女が取り換え可能なように、女のほうにしても相手は人格であるより記号である。
男は女という夢を見たが、女は早々に男という現実に目覚めて、男の代わりに女に、つまり自分自身に向かった。
●ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニー
男の値打ちは、男同士の世界での覇権ゲームで決まる。
ホモソーシャルとは、性的であることを抑圧した男同士の絆である。
フロイトは「生の欲動」をアイデンティフィケーション(同一化)とリビドー・カセクシス(欲求充当)に分けた。なりたい=父願望と持ちたい=母願望。このふたつを振り分けることができないのが同性愛者である。
おかまが自分たちの集団に潜在していることの恐れは、自分がいつ性的客体化されるかもしれない、という主体位置からの転落の恐怖である。ホモフォビア
女を共通の犠牲者と化すことが、男同士の連帯のための儀式となる。
男は他の男の性的欲望を模倣することを通じて、男として性的主体になる。
●性の二重基準と女に分断支配
聖女と娼婦の二分法。性の二重基準のもとで、分断された一方の女が他方の女を軽蔑する「娼婦差別」がある。
生殖からの疎外も生殖への疎外も女にとっては抑圧であり、女のセクシュアリティは、生殖向きと快楽向きとに分断されて互いに対立させられながら、疎外されていた。
●非モテのミソジニー
容姿から非モテを導き出すK君の思考回路が、いかに女性との現実の交渉を欠いたものかはすぐにわかる。
彼女がいることがすべてのマイナスから自分を救ってくれる逆転必勝の切り札だと考える彼の思考は完全に倒錯している。実際の因果関係は、仕事をやめたり、車をなくしたり、夜逃げしたり、携帯依存症になるようなやつに彼女はできない、となる。
夫婦も恋人も定型を失ってきた。定型の無い性関係のなかで相手は異形となる。
性的弱者が望んだのは、自分を男にしてくれるひとりよがりな女の所有でしかない。
●児童性虐待者のミソジニー
加害者に同一化するだけでの快楽は浅い。被害者の痛みにも同化できるからこそ、快楽はより複雑になり深くなる。
●皇族のミソジニー
正当性には正当性を与えるものが必要。
創設婚→MBD婚(豪族との結婚)→FBD婚(皇族との結婚)
神武~允恭までは、皇后腹が優先される。安康~持統まででも皇后腹の天皇は20代のうち、7人にのぼる。
天皇の娘は、同族の男と結婚しない場合、斎宮制度を通じて神との盟約を結び、スメラミコトの外部性は保証される。
なぜ創世神話の祖神は女性か?
王権の正当性には外部が要り、その外部を表彰するのが女だからである。
●春画のミソジニー
女が殺される可能性が最も高い相手は、夫や恋人である。
女のマスターベーション・シーンがポルノの消費者としての男に性的刺激を与えるのは、その不在の男根の位置に、みずからの男根を象徴的に代入できるからである。
●近代のミソジニー
女という選択されたカテゴリーを選択に変える。そのなかに解放のカギはあるだろう。
●母と娘のミソジニー
ステージママ。
女性性とは、それ自体がメランコリックなのだ。
母を憎むだけで、娘は自分を人非人のように恥じなければならない。なぜなら母は抑圧者でありながら、犠牲者だからだ。
母が母でなくなって初めて、彼女は母親と和解する。
●父の娘のミソジニー
父の娘の最大の役割のひとつは、無念の死を遂げた父の魂を慰める存在となること。
父の娘はただの誘惑者ではない。父に対して娘であることの特権を知悉し、とことん利用することで、その権力関係をあわよくば転覆しようと狙っている誘惑者の権力の所有者なのだ。
もっとも恥ずべき行為を父にさせることによって復讐する。
その復讐が自傷や自罰をつうじてしか遂行されないところが、絶対的弱者である娘の選択肢の狭さ。否定的アイデンティティ形成。
父の娘から脱する道は、二つに一つしかない選択肢(母の言葉か父の言葉か)をいずれも拒否し、「母であること」や「娘であること」を降りるほかない。母の解放と娘の解放とは対なのだから。
●女子校文化とミソジニー
中村うさぎ。ドラッグクイーンとは、女らしさを過剰に演出することでジェンダーの虚構性をネタにして笑い飛ばす、ゲイの女装戦略だ。
ええ、整形ですから。
中村うさぎはこう答えることで、容貌の美醜が自分に属さないこと、女というジェンダーが女装によって成り立っていることを、パフォーマティブに示す。
●東電OLのミソジニー
メディアが発情した。
父へのリベンジとしての自傷。
均等法以後の女は、個人としての達成と女としての達成、このふたつを両方とも充足しなければ、けっして一人前とはみなされないのだ。
娼婦になる理由。
自分に商品価値があるのなら、せめて高いうちに売って金を儲けたいと考える者。性なんて何の意味もないのだということを、自分の肉体で確かめたい者。自分なんかちっぽけでつまらない人間だと卑下するあまり、男の役に立つことで自己を確認したいと思う者、荒々しい自己破壊衝動に駆られる者。
東電OLA子さんのほうが男の値段(2千円)をつけている。
援助交際経験があり、かつて養父に性的虐待を受けていた女性は、男からお金を受け取るのは、私の体をあんたが自由にしてよいのは、金を払っているあいだだけだということをはっきりさせるためでしたという。
自分が男の性的欲望の対象になることに関して、自分自身の主体性を確保したい。
●ふたつのミソジニー/ミソジニーの女
なりあがり戦略となり下がり戦略。
女のねたみ・そねみ・ひがみは男に選ばれる女の帰属をめぐるゲームという点で男のそれとは違う。
「対岸の彼女」は女同士の友情を描き、「ヘヴン」は少年と少女の形而上的な友情を描く。
●権力のエロス化
夫婦の間にセックスの義務が生じた。
プライバシーの語源はラテン語のはく奪したから来ており、公権力の介入を拒否する領域では、強者にとっては自由な支配を、弱者にとっては第三者の介入や保護の無い恐怖と服従の場になったのである。
神が死んだあとの秩序の真空を自然が埋めた後、原罪を人間に教えるのは神でなく性の自然となった。
課題はセクシュアリティを歴史化すること、すなわち脱自然化することである。
性が特定の歴史的文脈において、性が特定の何かと特権的に結び付けられる蓋然性だけである。
エロスは文化的な発情の装置であるからこそ、知性も教養も必要なのだ。
守るというのは、男にとっての愛が、所有や支配の形式しかとりえないことを、この概念は如実に示す。
●ミソジニーは超えられるか
欲望の三角形のもとでは、欲望の主体は男性に限られ、女は園三角形の中では、意志さえ問われない欲望の客体にすぎない。
女性にとってホモソーシャルとホモセクシュアルとのあいだに連続性があったとしてもそれは不利な選択、劣位であることを甘んじる選択になる。←男性の集団に帰属することで権力という資源配分をあずかるほうが効率がいいため。
ミソジニーについては、それを超える道筋がふたつある。ひとつは女が超える道筋、もうひとつは男が超える道筋である。
男性の自己嫌悪には、自己否定と身体蔑視がある。
男性性と暴力の結びつき以前に、暴力とは恐怖という名の防衛機制を解除した他者身体との過剰な関係を意味する。
フェミニズムは女にとって、自分自身と和解する道だった。男にとっても自分自身と和解する道がないわけではない。
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