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サバルタンは語ることが出来るか【要約】

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サバルタンは語ることが出来るか【要約】



〈サバルタン自身は語ることができるか〉〈サバルタンについて誰かが語ることはできるか〉
寡婦=脱中心的な主体(デリダ)とサバルタンについて語る代表/代理の関係性(マルクス)に基づいてスピヴァク自身の位置の取り方を問題化する。
1.フーコーとドゥルーズの主体への批判
ポスト構造主義は権力・欲望・利害の異種混交的ネットワークと他者の言説の存在を明らかにしたが、グローバル資本主義が示す困難さを否認している。
イデオロギー=言葉によって支配階級の支配を保障する能力の再生産をかれらは図式的にとらえているので、欲望と利害を機械的に関連付け虚偽意識の否定にまで行ってしまう。
「大衆は、完全によく、はっきりと知っています」(フーコー)
マルクスによれば、喩としての表象(代表・経済)と説得としての表象(代理・政治)が齟齬をきたす社会的「主体」=分割地農民(=サバルタン)は執行権力が社会を従属させること(代理)のうちに最後の表象を見出す。
マルクスが言う十全な階級的行為とは人為的な領有であるとともにひとつの異議申し立て的な置き換えを行うことであるが、フーコーたちのリビドー経済は主権的な主体のカテゴリーにまで戻ってしまう。よってこの反動的な主体形成はミクロ論理ではなく、マクロ論理の利害をミクロ論理で操作する(レプレゼンテーションの二重性)というイデオロギーの理論によって説明するしかない。

フーコーとドゥルーズの結論は➀記号論は葬り去っても良い➁理論は実践の中継者③被抑圧者は自分で知り語ることが出来る、の3点である。この結論に伴って欲望と権力という大文字の主体と被抑圧者という小文字の主体と二つの主体の間で透明な存在である知識人が導入される。
しかし、知識人の透明性は国際分業の搾取者の側に属しているので、超越論的なシニフィエである経済的要因が社会的テクストを書き込み直しているのを見てみるという政治的実践は還元不可能であるが故に必要となる。

2(30~)
正気の再定義はヨーロッパ並びに植民地の歴史のナラティブだとすれば、ナラティブとして確立された経緯を考察する必要がある。(ヒンドゥー教を法典化する認識の暴力についての図式的な要約)
主体が記憶力を利用する時に定義される4つの部分からなる
?シュルティ(聴取)?スムリティ(記憶されているもの)③シャーストラ(他から教わるもの)④ヴイヤヴァハーラ(やりとりしながら遂行されるもの)
?と?は連続的でない場合もあり、③と④は連続する。この4つの方法が紛争を解決するものかどうかは法律家ですらも確信が持てない。
「認識の暴力」=内的一貫性を欠いていて両端の閉じていない法律遂行の多形態的な構造を二進法で正当化するもの。(例:サンスクリット研究とサンスクリットの文化の分離)
スピヴァクの「他者」は認識の暴力によって画された圏域の縁に位置する読み書きのできない農民、部族民、都市の最下層に属する男性と女性を指しており、国際的分業によってかれらが社会的資本とは反対の側におかれている場合、語ることができるのか。
サバルタンスタディーズのテクストは異種混交的な空間(「偽」のサバルタンが支配者の利害に沿って行動すること)を固定的にとらえることが不可能であることの諸条件をその可能性の条件として書き直す。
国際的マルクス主義もサバルタンスタディーズもドゥルーズ・フーコーも意識の純粋なる形態を想定している。
意識は異なる階級及び集団のあいだの相互関係の知識に結びついているが、意識と知識とをつなげる視点にはイデオロギー的生産という中間項が抜けている
作品=サバルタンがいう事ができない事柄という概念(マシュレー)は女性「像」と女性の「無規定」によって、性差は二重に消し去られており、イデオロギー的構築が男性的なものを支配的な立場にとどめおいたままにしている問題を示す。。
。現代の国際分業は19世紀の帝国主義の焼き直しであるが、かつては産業資本を成長させるために教育や輸送手段、法律が発展したが、現在は脱植民地化し多国籍資本になった結果、植民地での行政的負担が減ったため、安価な労働力の提供先として買弁国家に立法や教育システムの確立が阻害されている。
同質的な他者を構築するだけで終わってしまうならば、その意識を捕まえるのが不可能な人々=最底辺の自作農民、未組織の農業労働者、部落民、ゼロ労働者と向き合うということは、かれらを代表することではなく、私たち自身を表象することを学ぶことである。
地理的な非連続性に触発されたフーコーの空間的位置形態をとった権力思想は帝国主義が地誌に行った書き込みの自覚は無い故に、書き込みを強化するようなローカル化した抵抗を称賛している。
サバルタンの二重の抑圧を、語ることができないことと語ることからの抵抗という二つの面から見ることでイデオロギー的生産を考察する。

3(62~)グラマトロジー
自民族中心的な主体が、他者によって自己を確立してしまうのを避けるために、経験主義的調査研究が自らに課す実例を通して第三世界の「認知」に抵抗する。文字の歴史には三つの偏見、➀神学的偏見➁シナ的偏見③ヒエログリフ的偏見がある。➀はギリシャ文字とヘブライ文字の現実性を保持し、➁、③はロゴスの中心がユダヤキリスト教的神にあると見る第一の偏見を支持する。
二つの解決策のうちの一つ、言い表すことができず、それでいて超越的でもないような場所は、サバルタンによって備給される。
デリダにとって、グラマトロジーの企てとは、自己自身の批判を遂行するなかで現前の言説がどのような行程を辿るのかを自覚することであり、他者たちに自分で語らせるのではなく、まったき他者への呼びかけを行って、自分のなかの他者、内なる声にうわ言を言わせることにほかならず、他者の構成のメカニクスのレヴェルにはフーコーの規律化施設化のメカニクスが有益である。
4(72~)寡婦殉死
性差別反対運動も意識あるいは主体なるものの想定と構築がその根底にあるうちは、帝国主義的な主体構成に取り込まれてしまい、サバルタンはいつまでも無言のままだろう

サバルタンについて語ることができるのかという問いが、もっともよくあらわれていたのは女性の問題、フェミニズムにおいてである。
英米の実証主義/本質主義フェミニズムとヨーロッパの理論のフェミニズムの二項対立はヘーゲルやマルクスの弁証法のうちに本質主義を見たとき、問題の所在を見えにくくし、むしろこの二つ立場は共犯関係にあることを隠ぺいする。この論争のなかではサバルタンを語ることは出来ないが、フェミニズムは実証主義批判や物神崇拝からの脱却と連携すべきであり、そのうえでサバルタンの意識に向き合うと、女性のイデオロギー的犠牲化とポストコロニアル知識人の透明な立ち位置は似ていることがわかる。「白人の男性たちが、茶色い女性たちを茶色い男性たちから救い出している」という抑圧的な文には二重の歴史があり、1829年の英による寡婦殉死の禁止とリグヴェーダとダルマシャートラに起源がある。(この歴史を支持する未分化な前起源的空間もまた存在する。)
寡婦殉死、ヒンドゥー教の寡婦が死んだ夫の火葬用の薪のうえに上り、そのうえでわが身を犠牲にする行為、が禁止されたことに対するインドの土着主義者は「女性たちは実際に死ぬことを望んでいた」という。植民地社会=善き社会設立のため、儀礼と犯罪、私的なものと公的なものの境界を飛び越え、女性保護というシニフィアンは行われた。
ダルマシャートラの中で真理を認識した主体の自殺は自然に取って有益であるため認可される。サバルタンの場合はどうか。儀式のベッドの上で、女性の主体が合法的に女性から引き離されて消尽しつつあること=寡婦殉死は彼女自身の欲望を表示した例外的なシニフィアンのように理解されうる。
寡婦の殺害を唱道するのではなく、殉死するのも殉死を思いとどまるのも、両サイドからはともに自由の選択の印とされてしまう場では、女性的主体が現に生きている姿のままに構成するということも、ディフェラン(抗争=争異)を示唆するにすぎない。
現実には寡婦殉死禁止は殺人や幼児殺しの禁止と同じく「目に見える暴力」として範疇化され、自由意思という疑わしきトポスや寡婦殉死のイデオロギー性、性別化された主体の構成は消し去られた。
サティー(良き妻)=寡婦殉死という言葉は文法的取り違えであり、インド諸語ではサティー(良き妻)の燃焼を意味している。この誤訳は善き妻であることと殉死の同一化を女性に強制する。
家父長制(伝統)と帝国主義(近代化)、主体の構築と客体の形成のはざまで、女性の像は原初の無からあるひとつの暴力的な往還(アポリア)のなかへと消え去っていく。
サティーのイデオロギーを介入主義的な実践に結びつけることは可能だろうか。
ブヴァネシュワリは、自分の死が違法な恋愛の結果だと思われるのを避けるために、生理を待って自殺することで、サティーを介入主義的なやりかたで書き直した。
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